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序 武田泰淳は昭和12年10月輜重補充兵として中国中部に派遣され、14年10月上等兵として除隊している
(古林尚年譜)。この2年間の兵隊生活で「ぼっちゃん性から脱皮した、この変化は目覚ましいものがあった」とは、友人竹内好がしばしば語った
ところである。 1.日中戦争および関連作品 日中戦争と言えば、その関連文献に目を通すだけで、日本軍の残虐行為に息の詰まる思いをさせられる。南京大虐殺に取材し、発表と同時に発禁となった
石川達三の「生きている兵隊」(昭和13・3「中央公論」)、
同じく南京戦を中国人の眼を通して描いた堀田善衛の「時間」(昭和30年4月新潮社刊)は、かつての私にとって抽象的だった<残虐行為>からの脱出であった。また、戦後、
現地を巡り、中国人の証言や記録、多くの写真資料を丹念に掬い
(すくい)上げた 本多勝一氏のルポルタージュ『日本の中国軍』(昭和47年7月、創樹社)では、前のいずれの小説作品にも誇張はないこと、いや、それ以上の多くの
<事実>が残されているだろうことに気付かされ、今さらのように愕然とした思いであった。
赤紙を手にするまでは、まさか自分が(自分だけは)戦場へ行くまい、行かないで済むだろうとぼんやりと考えている。そして、銃をあてがわれて「敵地」
へ行く。そうすると、今までとはちがった自分,
および人間を発見するようになってしまうのである。 (以上2月16日記)
「国のために命をすてる」という言いわけが〈無意味な殺害と破壊におおわれて、醜悪なあるものに変化し〉た戦場を、泰淳は生きなければならなかった。
死体は至るところに、ころがっていた。水たまりに倒れ、髪の毛を海草のように乱して、ふくれあがっている女の死体もあった。乾いた土の上に、 まるで生きているように仰臥している老人の死体もあった。者の焼けるにおい、肉のくさるにおいが、みちひろがっていて、 休息しても食事をしても、つきまとっている。 憲兵のとりしまりもない、裁判も法廷もない前線では、殺人は罰せられない。たった一人の老婆をころすのに、あれほど深刻な緊張をしいられたラスコルニコフの苦悩 をぬきにして、 罪のない、武器ももたぬ人びとが殺されていく。 だれがいつ、どのようにして殺したか、殺されたかという、犯罪の証拠もぼやけたまま、殺すという行為が「勇敢」 という美しいことばと結びつけられたりして、むごたらしく、なまなましく実演されていく。 あれほど深刻な緊張をしいられたラスコルニコフの苦悩をぬきにして、罪のない、武器ももたぬ人びとが殺されていく。だれがいつ、どのようにして殺し たか、殺されたかという、犯罪の証拠もぼやけたまま、殺すという行為が「勇敢」という美しいことば と結びつけられたりして、むごたらしく、なまなましく実演されていく。 男はだれでも、卑怯者といわれたくない。それに「国のために命をすてる」という言いわけもあるのだが、この堅固な言いわけが、次第に無意味な殺害と破壊 におおわれて、 醜悪なあるものに変化してしまう。 (「戦争と私」昭和>8>月 死体は至るところに、ころがっていた。水たまりに倒れ、髪の毛を海草のように乱して 、ふくれあがっている女の死体もあった。乾いた土の上に、まるで生きているように仰臥している老人の死体もあった。者の焼けるにおい、肉のくさるにおいが、 みちひろがっていて、休息しても食事をしても、つきまとっている。 泰淳自身は、どのように生きたのか。 日本の場合、戦後、戦争からの帰還兵の、<戦争中の>所業を問うことは、タブーだったと思われる記述がある. たとえば、奧野健男氏が座談会(『近代文学』「武田泰淳―その仕事と人間」昭和35年7月~8月)で、堀田善衛氏から 「そういうことは詮索せんほうがいい」 と制され、また、布野栄一氏が「げすのかんぐりの域を出ることはあるまい」(「武田泰淳における中国体験」『解釈と鑑賞』昭和>47 年7月)と述べている。 不都合なことには耳をふさぐ、なかったことにする、知らなかったことにする・・・少なくとも、われわれは知りたくない、 という姿勢を是とすれば、戦争を描いた作品は、すべて〈フィクション〉として読まれ、戦争の証言にはならない。 このような姿勢は、実は、過去のものではなく現在の問題でもあるだろう。多くの小説があっても、〈証拠がない〉。軍として組織的にやったことではなく、 指導者は知らなかった、関与していなかった等々。 しかし、泰淳自身は十年の時を経て、自らの戦場を語り始めている。「悪らしきもの」(昭和24年3月)、「細菌のいる風景」(昭和25年1月)、 「冷笑」(昭和26年7月)、「勝負」(昭和27年4月)、「汝の母を」(昭和31年8月)などである。 観たものでなければ書けないであろう作品を書き続けた泰淳の覚悟を、私は受け止め、現在を考えたいと思う 。 (1) |
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