武田泰淳が語った戦争

現在もなお、二国間のわだかまりの原因となっている、かつての日本軍の中国侵攻について、武田泰淳は「小説という形」をとりながら、実は 多くの証言を残した、と私は思う。 小説=フィクション→証拠にならない、という扱い方をされてはならない。彼の作品や言葉を重く受け止め、考えてみる必要があると思う。  泰淳の作品や言葉と、いくつかの年表を照らし合わせたところ、日本の軍隊の作戦計画の中に、すっぽりと呑み込まれて動かされていた、 若き日の泰淳の姿が浮かぶ。以下、具体的に照らし合わせてみる。
中国の武田泰淳
現代史資料9「日中戦争・2(みすず書房、昭和39年1月 中支作戦経過概見表>より 泰淳の著作・対談発言資料  推→推定; 時期 年表          太平洋戦争史3「日中戦争Ⅱ」(歴史学研究会編、昭和47年5月)
戦場 取→関連する取材作品
昭12年 7 盧溝橋事件
(日中戦争はじまる)
8 上海 8/9 大山事件 
  (上海戦の開始)
8/23 上海派遣軍、呉淞(ウースン)と川沙鎮に強行上陸
9 9/13 3個師団の増派決定
10 23日 * 招集を受け、輜重補充兵として中支に派遣された。
【輜重兵とは】前線に輸送・補給する食糧・被服・武器の輸送を任務とした兵種の一。また、その兵士。
10/7~10/25>呉淞(ウースン)クリークを境に、激烈な戦闘がなされた。
呉淞に上陸、上海の南市までまる一日の行軍    はじめて戦場をふんだ一兵卒の私には、揚子江文化を研究するなどという心のゆとりはありませんでした。 -略ー日本軍の寛大な処置も効なく、焼き払われて打ち壊された残骸の身がありました。私のはじめて見た支那人は腐敗し物言わぬ屍でありました。 -略ー私は愉快な戦地生活の中で、茫然として、ただ支那の風景を眺めるのみでした。>                           (「支那文化に関する手紙」昭和15年1月、     全集11巻、241p所収)   【注】この文章中の、日本軍の寛大な処置>愉快な戦地生活>という表現は、発表年度を考慮すれば、検閲(言論統制)を意識した、 カムフラージュとみるべきだろう。




25日 上海攻防戦の要とされた大場鎮が陥ちる。

 日本軍の戦死 九千余        * ***戦傷 三万余

 中国軍遺棄死体25万 (推定)


取→「呉淞クリーク」(日比野士朗、中央公論、昭和14年2月)

呉淞から上海の南市まで、まる一日の行軍で足を痛めた。両足の親指の爪が血膿を流してズルズルと 抜け落ちた。・・
(「悪らしきもの」昭和24年3月、p288、「戦争と私」(昭和42年8月15日)
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