武田泰淳が語った戦争
中国の武田泰淳(昭和12年12月~13年4月)
現代史資料9「日中戦争・2(みすず書房、昭和39年1月 中支作戦経過概見表より 泰淳の著作・対談発言資料  推→推定; 時期 年表
太平洋戦争史3「日中戦争Ⅱ」(歴史学研究会編、昭和47年5月)
戦場 取→関連する取材作品
昭12年 12月 南京 推→ 上海の本廠から、湖州の支廠へ2週間滞在 (「冷笑」全集3巻、288ページ) 1日、参謀本部、南京攻略命令
13日、南京攻略
まあ、ぼくら南京大虐殺には、直接参加してませんけれども…(対話「私はもう中国を語らない」昭和48年3月、 朝日新聞社) ・杭州支廠に到着
「私は湖州の衛生材料廠からトラック で杭州の支廠に到着した。日本軍が杭州に「無血入城」してまもない頃である」(「美しき湖のほとり」昭和27年6月、全集1巻345p)
*南京大虐殺
南京占領前後1ヵ月余の間に、南京全市の約三分の一の家屋が放火、破壊され、市内に発生した強姦事件は二万件いじょうであり、 市街および近郊で市民及び中国人の捕虜二〇余万人が惨殺された。

取→「生きている兵隊」(石川達三・中央公論、昭和13年3月)→即、発禁となる。
取→「時間」(堀田善衛、世界、昭和28年11月、昭和30年1月)
昭和13 1月 ・杭州衛生材料廠に配属になる。私が杭州の〇〇〇〇廠に配属になったのは一昨年の一月であった。 上海のあのがらんとした中山医院の宿舎から杭州の金持ちの別荘の建物に移ったので、 心持は新鮮であった―略―特に美しいのは西湖であった。  (「杭州の春のこと」昭和15年2月、全集11巻、246p)

・私は杭州の衛生材料廠支所にいたころ、まだ二等兵であった。まだ召集されて三カ月ばかりで、今までにない、 ほとんど生まれて初めての緊張した生活を送っていた。―略―人間とは何ものであるかまるでわかっていなかった。
「悪らしきもの」昭和24年3月、全集2巻、286p)
・私共が杭州を引き揚げる少し前に仕事は再び多忙になった―略―私は上海へ帰る前の日に支那料理屋へ行って支那マンジュウを 食べてみた  (「杭州の春のこと」昭和15年2月、全集11巻、246p)
9/13 3個師団の増派決定
中国の日本軍
(本田勝一、創樹社、昭和47年7月)
2月 蚌埠(バンブ)
2日
3 (広徳)
4

(3)

Back

Next