武田泰淳が語った戦争
中国の武田泰淳(昭和13年5月~13年6月)
現代史資料9「日中戦争・2(みすず書房、昭和39年1月 中支作戦経過概見表より 泰淳の著作・対談発言資料  推→推定; 時期 年表
太平洋戦争史3「日中戦争Ⅱ」(歴史学研究会編、昭和47年5月)
戦場 取→関連する取材作品
昭13年 5月






徐州
 5日

5月
31日まで

6月7日
(安慶)
・徐州作戦に従軍 4日~6日 淮河で二回泳いだ。そして夜半になって火災で橋まで焼けてきそうになったので橋の付近の民家の破壊作業をした―略―午前三時アンペラの上に横になった時にはかなり疲れていた。五時半には起きて炊事にかかった。ますまし働こうと自分に言いきかせた。しかし二日たった今日、大雨で火災は消えてしまい、私は五月四日にしたことをわずかに書きとめるにすぎず、もはや忘 れてしまうばかりである。 (「支那で考えたこと」昭和15年8月、全集11巻、248p) 若い中国兵がいた―略―わけなく捕まって首をきられちゃったんです。 (首を斬られるところを)見ていましたね。・・・・乾燥した6月のはじめ
 (対談「混沌から創造へ」中央公論社」昭和51年3月、 小説「勝負」(昭和27年4月、全集4巻38p)には、作品として生々しい描写がなされている。
・徐州戦 取→「麦と兵隊」
(火野葦平、「改造」昭和13年8月) *泰淳「麦と兵隊」批判 
(→昭和13年9月の引用をご覧ください)
6月 ・寿県に滞在 
難民区の自治委員会に豆腐を買いに行った。
寿県の街は今は死んだ馬が路をふさいでいる外は何処へ行ってもひっそり 閑としているのだが、ことに、囚人も囚人を見はる人もいない牢獄が、 緑したたる六月の自然の中に開放されているのを眼のあたりに見ると、 それが異国のことだけに静けさは雨よりも冷たくしみわたった。 考えてみれば不思議なのである。ここにかつて罪悪がみちていたのであろうか。
  (「支那で考えたこと」昭和15年8月、11巻249p) 雨の多い六月の末、私たちはトラックで寿県に到着した
  (「悪らしきもの」昭和24年3月)
推・N市滞在
現在N市にいます―略―戦線の生活は儀礼もなく溌剌(*はつらつ)としてお互いに心の底を割った生活です。―略―支那人に対しては何故かおそろしい人間だという考えがおこります。別に殺される時平気だという小さな点ではなく全体として彼らの存在、あるいは存在していること自身がおそるべきではないでしょうか。―略―東方に対する一つの決意なくして何の袁中論でしょう。何の中国文学研究会でしょう。> 
   (「戦線より―増田渉宛」昭和13年8月、全集11巻220p)

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