武田泰淳が語った戦争
中国の武田泰淳(昭和13年7月~13年12月)
現代史資料9「日中戦争・2(みすず書房、昭和39年1月
中支作戦経過概見表より
泰淳の著作・対談発言資料
推→推定; 時期
年表
太平洋戦争史3「日中戦争Ⅱ」(歴史学研究会編、昭和47年5月)
昭13年 戦場 取→関連する取材作品
6月


























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10月





11月
武漢
18日
11月
11日
まで




7月
26日
九江

10月
26日
漢口



















11月
11日


推 ・蚌埠(バンブ)に一週間滞在 徐州会戦のおわったあと、蚌埠の街で過ごした夏一週間のうちに、すでに中国の難民たちの間にこの気味わるい疫病―注、コレラ―のきざしがあった。

(「細菌のいる風景」昭和25年1月、全集1巻、349p〉 ・麦畑のつらなる田舎町に滞在

戦地の七月、麦畑のつらなる田舎町で、一つの奇妙な想い出がある―略―まっぴるま男女二人が、つかまった―略(大変残酷な描写があるため、ネット上の引用は控えます―やがて、その親子は、放火犯人として焼き殺された〉
(「汝の母を!」昭和31年8月、全集5巻、382-386p〉 推→盧州へ移動
漢口作戦がはじまると私たちは盧州へ移動した〉
(「細菌のいる風景」昭和25年1月、全集1巻、250p〉

・マラリアで盧州の野戦病院に収容される。「麦と兵隊」「黄塵」「漂泊の魯迅」等を読む。〈昭和十二年の夏、上海戦ではコレラが流行した―略―防疫部の陣中日誌でかなり詳細にその状況は読んでいる。私の実際に体験したのは、十三年九月の盧州の野戦病院においての患者続発の光景であった。
(「細菌のいる風景」昭和25年1月、全集1巻、249p〉

私はここでマラリアに罹ったが、熱の高い一時間だけ横になって、また消毒ポンプをかついで部屋から部屋へと歩いた。増加してくる患者を前にしては
誰も臥床(がしょう)していることなどできなかった。
ここで私は「麦と兵隊」を読んだ。風景も何もかも私の見たとおりのことが書いてあった。あまりにも健康でさえあると感じたのは私の熱のためであったのだろう。第一兵士の何人があんな長い文章を書く暇があったのだろうか〉
  (「戦線の読書」昭和14年11月、全集11巻234p)
・16日、火野文学批判の文を書く
〈火野氏などの戦線文学は兵士の血を沸かします。しかし文学なんてあんなものではないと思う。いくら兵士でも自己の根性はもっていて自我がこの鉛の流れのような一年間のうちにも底に沈んだ水の藻のように生きているものです。私は報告的な反知性的な戦線文学をきらいます。〉
  (「戦地より」昭和13年19月11日付、増田渉宛書簡、全集11巻、222p)






推→漢口に上陸、慰問袋の書物を乱読する
私が漢口に上陸した日は、雪が暮れかかる桟橋にふりつもっていた。漢口の野戦郵 便局には沢山の慰問袋や小包が待っていた。岩波文庫の「論語」ランボーの「地獄の季節」ネルヴァルの「夢と人生」ジイドの「法王方の抜穴」それから別にルナールの「日記」など。
  >寝台の上に積みあげて毛布にくるまりながら、寸暇を盗んで読みふけった。雑誌もきていた。文芸春秋やセルパンなどをページをめくる烈しい音をたてながら乱読した〉
  (「戦線の読書」昭和14.11.「文芸春秋」全集11、235p)

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