武田泰淳が語った戦争
中国の武田泰淳(昭和13年7月~13年12月)
現代史資料9「日中戦争・2(みすず書房、昭和39年1月 中支作戦経過概見表より 泰淳の著作・対談発言資料  推→推定; 時期 年表
太平洋戦争史3「日中戦争Ⅱ」(歴史学研究会編、昭和47年5月)
昭14年 戦場 取→関連する取材作品
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(漢口) ・漢口で暮らす 〈私は14年の正月は漢口で暮しました。我々はよく漢口の中山公園遊びに行ったものです―略―私が見ているのは人のいない公園の風景でありました。私はひとり考えました。これが「文化」なのかな?これは確かに「堆積した文化」にはちがいない。一度つくられまた忘れられてしまった文化にはちがいない。―略―
 二十四史が何だろう。北京図書館がなんだろう。万巻煙となって消ゆるとも、自分の馬鹿面だけは残ってくれる。すべてのもの焼け失せるとも自己の「文化」を抱きしめている身ひとつが残ったらそれでよいではないか。抱きしめる物一つなく「文化」ということの軽々しさよ。私は支那の文化をいじくりまわすあのいやらしい手つきを見たくはない。愛することもなく利用することばかりを知っている「研究」がなんであろうか。文学に対する情熱のない文学史がなんであろうか。人なき公園がなんであろうかと。〉
  (「支那文化に関する手紙」昭和15.1.「中国文学月報」全集11巻243p)

・武昌へ渡りすぐ九江へ移動する
〈私が武昌をはじめて眺めたのは冬も一月のことであった。江岸も赤土の肌を見せているところが多い。近代的な漢口の雑踏した江岸通りから、連絡船に乗って渡ったのであるが、ひっそりとしたこの街には最初から親しい感じを抱いた。―略―その時は武昌からすぐ九江へ移動したので黄鶴楼を楽しむ暇はなかった。
(「黄鶴楼」昭和16年12月「揚子江文学風土記」全集11巻、268p)
〈東洋の書物を読もうと私は考えた。その頃我々は揚子江を下って九江に入った。―略―私は「論語」と「菜根譚」と「法句経」を読んだ。―略―「呉淞クリーク」の作者は「菜根譚」を肌身はなさずもっていたというが、私は「菜根譚」には言葉のあやがあると思った。対句や調子が気にさわった。それにくらべたら「論語」こそ真の古典だと思った。〉
(「戦線の読書」昭和14年11月「文芸春秋」、全集11巻236p)
〈漢口作戦が終わり揚子江を武昌までさかのぼり、再び流れを下って九江の防疫部に勤務する時になってはじめて、私はこの細菌の猛威を思い出した〉
(「細菌のいる風景」昭和25年1月、全集1巻、255p)

推→南昌へ進出
推→九江へ引き揚げる
〈私たちが南昌から九江へ引き揚げてまもなく、部隊長は中佐に進級した〉
(「細菌のいる風景」昭和25年1月、全集1巻、257p)
推→盧山山麓に行く
〈盧山山麓に行く―略―枯木と青草が交替する季節であって異国の山岳地帯ではあるし静かにしていればいろいろと考えることも多かった。〉
(「支那で考えたこと」昭和15年8月、「中国文学月報」全集11巻、250p)
〈世に殺人ほど明確なものはない。殺された者は横たわって動かず、殺したものは生きて動いている〉
  (「支那で考えたこと」昭和15年8月、全集11巻、262p)
推→武昌へ引き返す
〈その夏私はまた武昌へ引き返した〉
(「黄鶴楼」昭和16年12月「揚子江文学風土記」全集11巻、)
〈武昌は九江より涼しかった〉
〈熱があって寝たがその時三十九度以上がつづき頭の中が何かでいっぱいつめこまれたような状態になったことがある〉
   (「支那で考えたこと」昭和15年8月、全集11巻)
・上等兵で除隊。転向体験と戦場体験に基づいて「司馬遷論」の構想をたててメモをとりはじめる。「盧州風景」の第一稿を書きあげる。
 (古林尚「武田泰淳年譜」)

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