武田泰淳が語った戦争

考察


以上、現代史資料9「日中戦争2」 (みすず書房、昭和39年1月)、太平洋戦争史3『日中戦争Ⅱ』(歴史学研究会編、昭和47年5月)の年表と、泰淳の記述を対比すれば、泰淳の移動は日本軍の侵攻と一致している。この一致は、戦争を描いた 泰淳の作品が、実体験の「証言」として読まれるべきだという私の立場を裏付けている。
年表との照合と重複する箇所もあるが、ここで、泰淳の従軍中の足取りを作家自身の言葉をたよりに辿れば、次のようになる。
昭和12年10月、激戦のあった呉淞(ウースン)に上陸し、上海の南市まで丸一日かけて歩き、足を痛めている。そこで見たものは〈焼き払われて打ち壊された〉 街々の残骸であり、〈腐敗し物言わぬ屍〉であった。まもなく南京の攻略が行われている。泰淳は〈直接参加していない〉とだけ語るが、上陸から杭州へ移動するまで、 少なくとも二カ月の記録のブランクがある。歴史学研究会編「日中戦争」の記録によれば〈全市の三分の一の家屋が放火、破壊され、市民および中国人捕虜二〇余万人が惨殺され、 市内に発生した強姦事件は二万件以上〉という南京大虐殺があったと記される。
その事件直後、昭和12年12月29日から13年1月下旬まで、上海、蘇州、南京を訪れた石川達三は「生きている兵隊」を書き、『中央公論』に発表するが、すぐに発禁処分になっている。その一部は、次のようなものである。

左手の小指に彼(*伍長)は銀の指輪をはめていた。倉田少尉が見つけて、
「伍長、それはなんだね」と言った。
「は?これですか、これはこんなもんです」と答えて彼は にやにやと笑った。そして隣の兵の手を掴んで言った。「こいつも持っとりますよ」「どこから持って来た」「これは少尉殿、姑娘(クーニャ*若い女、お嬢さんの意)がくれたんですわ」 すると兵ががやがやと笑った。「拳銃の弾丸と交換にくれたんだろう。なあ笠原」「そうだよ!」と彼は応じた。「僕はいらんちゅうて断ったんですがなあ、どうしても笠原さんに差し上げたいちゅうてなあ、 頼まれたんですわ。仕様がないですわ」
支那の女たちは結婚指輪に銀をつかうらしく、どの女も銀指輪をはめていた。あるものは細かい彫があり、また名を刻んだ物もあった。(石川達三「生きている兵隊」 (昭和13年3月、発禁処分、現在は新潮文庫にある)
若い女を強姦したのち殺し、その証拠品を掲げて得意になって語り合う、兵士たちの〈日常〉が描かれている。
泰淳が自らの戦争体験を語り始めるのは、八年という時を経て、戦後の「審判」(昭和22年4月、『批評』)からである。 「審判」については 、『サイカイ武田泰淳』(2009年12月希窓社)をお読みいただきたい。
その後の小説「悪らしきもの」(昭和24年3月 全集2巻)、 「勝負」(昭和27年4月、全集4巻)、「汝の母を」 (昭和31年8月)では、「私」あるいは「大鳥」という名の 主人公をとおして、具体的な描写がなされている。 (大鳥は、武田の実家の姓「大島」のもじりか、 長泉院のそばの大鳥神社からの連想だろうか。いずれにせよ、 泰淳にとっては自らを仮託する近しい名前だと思う。また、「生きることの地獄と極楽」では、自らが「現地調弁」 された女たちのいる「慰安所」へ通いつめたと語っている。

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